学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

朝日村立茎太小学校

■学校データ

創立:1876年

・上中島小学校茎太分教場として開校。

・1887年に中新保小学校茎太分教場と改称。

・1902年に千縄分教場と統合。(千縄分教場の開校日は不明)

・1911年に三面村立中新保尋常小学校三面分教場と改称。

・1917年に三面村立三面尋常小学校茎太分教場と改称。岩崩集落に岩崩冬季派出場が開校。

・1941年に三面村立三面国民学校茎太分教場と改称。

・1943年に岩崩冬季派出場が閉校。

・1947年に三面村立三面小学校茎太分校と改称。

・1951年に本校から独立し、三面村立茎太小学校と改称。

・1954年に町村合併により朝日村立茎太小学校と改称。

閉校:2000年

コメント:

1976年に体育館、1980年に校舎が竣工されたため、わずか20年ほどで廃校となってしまったため、多少もったいない気もするが、玄関を見ると「奥三面歴史館」という看板が掲げられている。

ははぁなるほど、どうやら奥三面ダムを建造する際に発掘された縄文時代の遺跡や出土品を収蔵・保存する施設として使われているようだ。

・・・と思っていたがどうも違うらしい。「奥三面歴史館」で検索すると、この学校跡から上流に行った岩崩という集落にある「奥三面歴史交流館」が引っかかる。この交流館は2005年に開館したため、もともとこの学校跡に収蔵していたものを新しい施設に引っ越して、今は倉庫として使っているのではないだろうか。

ゴールデンウィークの時期に来たのにウェルカムしている状態じゃない様子を見ると、たぶんそうなんだと思う。

茎太小の手前がグラウンドだったようで、少し狭く感じる。その隣、体育館の正面近くにプールがあったらしいが、現在は埋め立てられていて、その痕跡は見当たらない。

 

奥三面ダムがあるところには遺跡もそうだが、1985年まで「三面集落」が存在していて、さらに「朝日村立三面第二小中学校」まであったのだが、ダム建設に伴い集落が移転、2001年に奥三面ダムが竣工したのちに水を貯め始め、遺跡の一部とともに今は湖の底に眠っている。

ちなみに民家などはすべて解体されたらしく、どこかの湖のように底からコンクリート構造物が出てきたりすることはないのだが、奥三面ダムの工事記録を見る限り、三面第二小学校はどうやら鉄筋コンクリート製だったようだ。

1971年に奥三面ダムの建設が始まったことを考えると、ダム建設時に校舎を建て直したとは考えづらいので、割と古くに鉄筋コンクリート校舎を建てたのかもしれない。ううむ、当時の三面集落に詳しい方がいたら教えて下さい。 

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