学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

越路町立岩塚小学校

■学校データ

創立:1873年

・第三中学区二十六番小学下条村校として開校。同時期に第三中学区二十六番小学下条村校岩田分校が開校。

・1877年に新築移転し第三中学区二十六番小学飯塚校と改称。

・1883年に岩田校が独立。岩田校に片貝校不動沢分校が統合。

1886年に村立飯塚尋常小学校、村立岩田尋常小学校と改称。

・1896年に村立飯塚尋常小学校に高等科を併置し、村立飯塚尋常高等小学校と改称。

・1901年に飯塚村と岩田村の合併により、岩塚村立飯塚尋常高等小学校、岩塚村立岩田尋常小学校と改称。

・1912年に岩田小学校に高等科を併置し、岩塚村立岩田尋常高等小学校と改称。

・1941年に岩塚村立飯塚国民学校岩塚村立岩田国民学校と改称。

・1947年に岩塚村立飯塚小学校、岩塚村立岩田小学校と改称。各校に岩塚村立岩塚中学校飯塚校舎、岩田校舎を併置。

・1948年に岩塚中学校の独立校舎が完成し、併置を解消。

・1955年に飯塚小学校、岩田小学校が統合し、岩塚村立岩塚小学校が開校。翌日、町村合併により越路町立岩塚小学校と改称。

閉校:2004年

コメント:

跡地には岩塚製菓飯塚工場、というか本社が建てられている。岩塚製菓新潟県民にとっては非常になじみ深い企業であるが、全国的にはどのくらいの知名度なのだろうか。亀田製菓、三幸製菓について米菓業界では第三位の売上高のようなので、たぶんかなり知られた企業だと思う。まあJASDAQに上場しているぐらいだから相当なのだろうけど。

閑話休題。学校跡地には跡地を示すものは残っていないのだが、その外れにある公園のようなところに二宮金次郎像が建てられている。あとなぜか観音様のような石像も建てられている。この公園のようなところはもともと岩塚製菓の研修施設があったところのようだが、その施設は解体され、なぜか二宮金次郎像が置いてある感じだ。その場所ももともと学校の敷地だったわけじゃなさそうだ。おそらく工場建設時に移設したものと思われる。

ちなみにこの岩塚小学校はもともと岩田小学校だったようだ。なお、写真に収めてないが、この工場の道路を挟んだ反対側に直売所があるのだが、もともとそこにも工場があり、さらにその前は岩塚中学校跡地だったらしい。

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長岡市立塚山中学校

創立:1947年

・塚山村立塚山中学校として、塚山村立塚山小学校に併置して開校。

・1951年に刈羽郡千谷沢村と学校組合を設立し、塚山村千谷沢村組合立千塚中学校として独立校舎にて開校。

・1955年に町村合併により越路町千谷沢村組合立千塚中学校と改称。

・1957年に町村合併により越路町小国町組合立千塚中学校と改称。

・1968年に組合を解消し、越路町立塚山中学校と改称。

・2005年に市町村合併により長岡市立塚山中学校と改称。

閉校:2006年

コメント:

一度村立として開校した中学校が隣町と組合を作り、中学校を運営するという珍しい形態である。全国的には組合立学校がいくつかあるが、千谷沢村も分村してそれぞれ越路町と小国町と別れたのにもかからわず、学校の区域はそのままなので、学校名も複雑に名前を変えていったようだ。

跡地には体育館とグラウンド、入り口に門柱が残されている。2006年の閉校と同時に校舎は解体されたようだ。

閉校記念碑が建てられているが、こちらは「千塚中学校」の名前で作られている。塚山中学校に名前を変えて37年経つのにもかかわらず、なぜ組合立のころの名前が残されたのだろうか。

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越路町立塚山小学校

■学校データ

創立:1874年

・第四中学区私立第十九番小学片貝校附属塚野山校として開校。

1878年に第四中学区第十九番小学塚野山校として独立、改称。

1886年に塚野山尋常小学校と改称。

・1887年に片貝尋常小学校東谷分校が移管し、塚野山尋常小学校東谷分教場となる。

・1907年に高等科を併置し、塚山村立塚野山尋常高等小学校と改称。

・1908年に高等科を廃止。

・1916年にふたたび高等科を併置し、塚山村立塚野山尋常高等小学校と改称。

・1941年に塚山村立塚野山国民学校と改称。

・1947年に塚山村立塚山小学校と改称。塚山村立塚山中学校を併置。

・1951年に塚山村立塚山中学校が独立(組合立千塚中学校)し、併置を解消。東谷分校が独立。

・1955年に町村合併により越路町立塚山小学校と改称。

閉校:2004年

コメント:

跡地には閉校記念碑などもなく、ただ空き地が広がっている。正確にはグラウンド跡に保育園が建てられてる。さすがにそっち方面を撮影するわけにはいかないので、かつて校舎があった側だけ撮影した。

この学校跡地の隣にはヨネックスの施設が建てられている。旧塚山村はテニスラケットやゴルフクラブなどで有名なヨネックスの創業の地であり、周辺には旧本社でもある新潟工場など、関連施設がいくつか見受けられる。

ちなみに奥にある建物はかつてコンビニだったもの。

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津南町立三里小学校

■学校データ

創立:1958年

津南町立芦ヶ崎小学校小下里分校と津南町立上田小学校田中分校が統合し、津南町立三里小学校として開校。

閉校:1983年

コメント:

わずか25年という短い期間しか存在しなかった学校。ネット上でもほとんどその情報には触れられていないが、今回この学校跡地にある閉校記念碑の撮影に成功した。

というのも、学校跡にはとある工場が建てられているため、むやみに入ることができないのである。そこでその工場に電話し、閉校記念碑を撮影させてもらえないかと交渉。従業員が付き添うことで撮影することができたのだ。お忙しいところ大変ありがとうございます。

表面は校歌が、裏に交渉と開校と閉校年月日が刻まれている。裏面には、この碑自体は創立20周年を記念して建立したというのが書かれている。つまりもともとは閉校記念碑ではなかったということだろうか。

閉校記念碑から奥を見ると、木造の建物が見えた。「もしかして当時の校舎ですか?」と聞くと職員はそうだと答えた。「写真って撮れますか?」と聞くと、「中には事業に関する書類や備品などが置いてあるので入れないが、外からならまぁ撮影して大丈夫だと思います」という返事をいただいたので、手短に撮影させてもらった。

ちなみに内部は2011年の長野県北部地震でかなり荒れてしまっている、ということも話してくださった。

なお、「三里」は「みさと」と読み、校区である小下里(こさがり)、反里(そり)、田中(たなか)の3集落のことを指している。学校自体は小下里、反里集落方面に位置するので、統合時の母体は小下里分校だったと思われる。1947年の空中写真では同じ位置に建物が見えるが、これが分校だったかはわからない。1976年の空中写真では明らかに形が変わっているので、建て替えられたものと思う。

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山古志村立芹坪小学校・山古志村立山古志中学校芹坪分校

■学校データ

創立:1901年

・東竹沢第一尋常小学校として開校。

・1911年に東竹沢村立芹坪尋常小学校と改称。

・1941年に東竹沢芹坪国民学校と改称。

・1947年に東竹沢村立芹坪小学校と改称。東竹沢村立東竹沢中学校芹坪分校を併置。

・1956年に町村合併により山古志村立芹坪小学校と改称。同年、東竹沢中学校、東竹沢中学校芹坪分校が統合により、山古志村立山古志中学校芹坪分校と改称。

・1972年に統合中学校校舎竣工により芹坪校舎を廃止。

閉校:1977年

コメント:

学校跡地は何も残っておらず、古い空中写真から場所を割り出したが、今は土地所有者によって管理され、一部はむやみな立ち入りが禁じられている。

鯉の養殖用として使われていたであろうコンクリート製の枡があるが、これがかつて小学校の簡易プールだったのではないかと推測している。

なお、集落名は小松倉なのになぜ「芹坪」という名前なのかはいろいろ調べてみたがはっきりとした答えは見つからなかった。

ちなみに小松倉集落といえば、「掘るまいか」でおなじみの手掘りトンネル「中山隧道」が有名である。小松倉集落の人たちが昭和初期に一番近い町であった小出町へ抜けるために掘った約900mほどのトンネルで、日本一長い手掘りトンネルとなっている。平成18年には土木遺産にも登録されている歴史ある場所だ。2021年現在、山古志側からしか入れず、途中で通行止めとなっているので、尋ねる際は小松倉集落からどうぞ。

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