学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

小千谷市立塩谷小学校

■学校データ

創立:1880年

・北魚第6中学校区24番小学中山校塩谷分校として開校。

・1902年に独立し、東山村立塩谷尋常小学校と改称。

・1941年に東山村立塩谷国民学校と改称。

・1947年に東山村立塩谷小学校と改称。

・1954年に市町村合併により小千谷市立塩谷小学校と改称。

・1968年に十二平分校を統合。同年新校舎竣工。

・1977年に十二平地区の児童が山古志村立東竹沢小学校に区域外通学開始。

閉校:2002年

コメント:

学校は解体され、跡地には農業用と思われる巨大な倉庫が建てられている。しかしながらその入り口には門柱が1対残っている。

銘板も残され、裏には門柱が建立された日付も書かれている。昭和45年とは1970年、新校舎竣工の2年後に建てられたようだ。

敷地内の隅には創立100周年の記念碑があり、「大きく羽ばたけ塩谷の子」と刻まれている。

塩谷集落も中越地震で大きな被害を受けた地域で、この地震により、地域に住む児童3人が家の倒壊に巻き込まれ亡くなっている。地域内に慰霊碑が建てられていて、毎年10月23日に統合先の東山小学校の児童たちが訪れ、供花しているとのこと。

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小千谷市立小土山小学校

■学校データ

創立:1908年

・大崩尋常小学校から独立し、岩沢村立小土山尋常小学校として開校。

・1941年に岩沢村立小土山国民学校と改称。

・1947年に岩沢村立小土山小学校と改称。

・1955年に市町村合併により小千谷市小土山小学校と改称。

・1966年に新校舎竣工により移転。

閉校:1985年

コメント:

新校舎竣工からわずか19年で閉校となった。校舎は鉄筋コンクリート製だったようで、2005年ごろまでは校舎のほか門柱も残っていたようだが、その後解体されたようだ。

現校舎があったところは草に覆われ、夏場は近づくのが容易ではなかった。近くを通っている2車線道路の旧道沿いにあったようで、この旧道も新道ができたと同時に廃止されたらしく、この学校入り口近くまでは進めたが、その先は藪に覆われている。

時期は変わり秋。閉校記念碑は旧校舎跡地に建てられているとのことなので、探索してみた。2車線道路の脇にあるわずかな獣道が跡地への入り口であり、目を凝らさないとよくわからない。

進むと一部アスファルトに舗装された路面が出てきて、その片隅に閉校記念碑が建てられている。表には「小土山小学校跡」と書かれ、裏面には建立日などが書かれたプレートがあったようだが、あまりに藪がひどいので撮影できなかった。

なぜこの部分までアスファルト舗装されていたのかわからない。ここにはかつて「三柱神社」という神社があったようで、その跡地を示した石碑もあったようだが、今回は藪が深く見つけることはできなかった。(もしくは移転した?)その神社は2004年の空中写真に写っているものの可能性があり、神社参拝用に舗装されていたのかもしれない。

(三柱神社は縁結びの神様だそうですね)

それにしても、閉校記念碑を旧校舎跡地に作った理由は何だろう。土地の所有者の問題だろうか。

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頸城村立明治東小学校

■学校データ

創立:1874年

中頸城郡第二十五番小学吉川校附属玄僧校として開校。

1886年に簡易科玄僧小学校と改称。

・1892年に中頸城郡村立修進尋常小学校と改称。

・1908年に明治村修進尋常小学校と改称。

・1941年に明治村明治東国民学校と改称。

・1947年に明治村立明治東小学校と改称。

・1957年に町村合併により頸城村立明治東小学校と改称。

閉校:1975年

コメント:

検索しても現在の姿をとらえた写真やデータが見当たらなかったので、おそらくWEB上で初公開かもしれない。

一度目は雪が降り始めた1月ごろに向かったが、さすがに積雪があり、狙いを定めたところへ向かうことができなかったため、日を改めて伺うことにした。

そしてうっかりすること11月下旬。雪が降る前に行かねば、と思い出してその場所に向かった。

学校があったと思われる想定地は、道路拡張により大きくV字に削れていた。古い地図を見なければここに学校があったとはだれも思わないだろう。

掘削された道の脇を通るように旧道が残され、その先に進むと農道へと続いていたが、地蔵堂がある分岐点から右側を見ると、奥に記念碑的なモノリスが見えた。これは間違いない!やっぱりここにあった!

うきうきと近づくと道の一部がガードで塞がれていたが、錆びて意味をなしていなかった。乗り越えるとカーブミラー跡があったりと、道路の一部を残して記念碑が建てられたといった感じだった。

裏面は沿革と建てられた年月が刻まれていたが、なんと閉校する1年前に建立されたことが判明した。ちょうど創立100周年に合わせて建てられたようで、明治東小学校も100年の歴史に幕を閉じたということになる。

閉校記念碑から現道をのぞき込むと、かなりの高低差があることがわかる。かなりの量の掘削を行ったようだが、学校跡を削り込むほどの工事だことに驚きだ。

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長岡市立寺泊中学校(旧)

■学校データ

創立:1947年

寺泊町立寺泊中学校として寺泊町立寺泊小学校に併置して開校。野積分校、夏戸分校を設置。

・1952年に新校舎竣工のため移転。

・1953年に野積分校、夏戸分校を廃止。

・1979年に火災により校舎の一部焼失。

・1980年に新校舎竣工。

・1996年に寺泊町立大河津中学校と統合。現在地に校舎竣工移転。

・2006年に市町村合併により長岡市立寺泊中学校と改称。

閉校:-

寺泊中学校自体は現役の学校だが、校舎の一部がまだ旧校舎跡地に残っている。

学校がかつてあった場所は「汐見台」という名称がつけられ、寺泊港が望める眺望地だったため、移転後はグラウンド跡を駐車場として整備され、トイレやベンチなどが備えられている。ちなみにこの駐車場は高台にあるため、防災用の駐車場としての役割もあるようだ。

その駐車場の片隅に、鉄筋コンクリート製の校舎が残っている。何かに使われている様子はない。残っている校舎は1980年に建てられたもので、現在の寺泊中学校が移転竣工されるまでわずか16年しか使われていなかったことになる。火災で焼失したしまったため仕方がないことだが、他の利用方法はなかったのだろうか。(もしかしたら沿革に内だけで何かに使われていたのかもしれないが)

汐見台に設けられた遊歩道沿いには閉校記念碑も建てられており、表には「寺泊中学校跡」と、裏面には校歌が刻まれている。現役の校舎があるのだが、それでも閉校記念碑が残されているのは珍しい。厳密には統合移転になるわけだから、あるのか。

それにしても、いい景色である。水平線の向こうに落ちる夕日を眺めることもできるようなので、ぜひ一度訪れてみてはいかがだろうか。

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高柳町立石黒小学校板畑分校

■学校データ

創立:1910年

・石黒村立石黒尋常高等小学校板畑分校として開校。

・1941年に石黒村立石黒国民学校板畑分校と改称。

・1947年に石黒村立石黒小学校板畑分校と改称。

・1955年に町村合併により高柳町立石黒小学校板畑分校と改称。

・1983年に新校舎竣工。

閉校:1985年

石黒の昔の暮らし」という石黒地区にお住まいの方が運営するホームページから情報を引用させていただいた。

新校舎竣工からわずか2年で廃校となっているが、おそらく少子化ゆえに廃校となるのを見越して、将来的に公共施設として使うことを前提に建て直したのではないかと思われる。

現在は集落センターとして使われており、もしかしたら中には当時の黒板なども残っているのかもしれない。

入り口には門柱が残っており、銘鈑もしっかりとはまっている。夏真っただ中に伺ったが、校庭の草もそれほど生えていなく、きちんと手入れされているのがわかる。

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