学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

相川町立大高小学校

■学校データ

創立:1887年

・前身となる公立簡易科橘小学校大浦雪中派出教場が開校。

1888年に前身となる簡易科高瀬小学校が開校。

・簡易科橘小学校鹿伏分場、大浦雪中派出教場、簡易科高瀬小学校が統合し、大浦尋常小学校が開校。

・1902年に二見村立大高尋常小学校と改称。

・1941年に二見村立大高国民学校と改称。

・1947年に二見村立大高小学校と改称。

・1954年に町村合併により相川町立大高小学校と改称。

閉校:1975年

コメント:

佐渡遠征その38。

大浦集落と高瀬集落の小学校ということで「大高」という名前がついたようだ。

学校は30年以上前に廃校となっているが、その校舎の一部が現存していて、地元の企業が現在も使用している・・・と思われる。(記事を書いている2019年4月現在は不明)今でも使われているということもあるので、きちんと許可を取って撮影した。(撮影時はゴールデンウィークだったが、従業員がいて仕事をしていた)

現存している部分は玄関兼教務室などがあった場所だったらしく、現役時は正面左側に校舎棟と体育館がかぎ状に建てられていたようだ。建物の左側にはちょっと飛び出した部分があり、これが渡り廊下だったようだ。今は草に覆われていてその跡地は確認できない。

ちなみにこの建物に入る道路側には今でも門柱が残っていて、さらに建物の右隣には二宮金次郎像が建立されている。しかもご丁寧に二宮金次郎像までコンクリート製の階段が作られている。(当時からここにあったかどうかはわからない)

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相川町立相川小学校小川分校

■学校データ

創立:1876年

・第六大学区第九中学区第十番小学姫津校小川分教場として開校。

・1891年に独立し、村立小川尋常小学校と改称。

1906年に金泉村立南尋常小学校と改称。

・1925年に金泉村立金泉尋常高等小学校南分教場と改称。

・1941年に金泉村立金泉国民学校南分教場と改称。

・1947年に金泉村立金泉小学校小川分校と改称。

・1950年に現在地に移転。

・1954年に町村合併により相川町立金泉小学校小川分校と改称。

・1961年に学区変更により、相川町立相川小学校小川分校として移行。

閉校:1963年

コメント:

佐渡遠征その37。

学校があった土地には「小川ふれあいセンター」という建物が建っている。その手前には記念碑が建っていた。「1963年に閉校した学校でも、きれいな記念碑が建つもんだなぁ」と思って近づくと、この小川ふれあいセンターとその土地の改良記念の碑だった。割と紛らわしいな・・・と思って少し進むと、門柱が建っていた。これはおそらく、学校が建っていた当時のものではないかと思う。

なにぶん、いろいろ調べたがなかなか小川分校の情報が出てこないのでとりあえずの歴史だけは調べたが、近辺に住民を見かけなかったため先を急いだ。

【追記】

とある図書館で「小川聞き書き帳」という、小川集落のことだけを書いた資料を見つけた。

そこには、昭和25年(1950年)11月、小川公民館のある場所(現在の小川ふれあいセンター)へ金泉小学校小川分校が移ったと記されている。当時の写真もあり、現在のセンターがある場所に体育館棟、そしてL字型に教室棟があったようだ。分校は閉校後に公民館になり、1999年に解体されたあとはまた別の場所に移転している。

また、詳しい日付は分からないが、昭和30年代の終わり(閉校後かその手前?)に、公民館に小川保育所が併設されていたそうだ。1957年までは春と秋の農繁期のみの保育、翌年からは4月から11月までの期間限定となり、1967年からはへき地保育所となり、通年保育になったとのこと。その後保育所は1991年3月31日で閉所し、その後は公民館機能だけが残り、1999年11月に解体されたと記されている。

また、当時の建物には代議士による「学び舎の跡」と書かれた額が飾られていたそうだが、これの行方はわからない。

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相川町立金泉中学校

■学校データ

創立:1947年

・金泉村立金泉小学校に併置して開校。

・1954年に町村合併により相川町立金泉中学校と改称。

・1956年に独立校舎へ移転。

閉校:2003年

コメント:

佐渡遠征その36。

すでに校舎はなくなっており、グラウンドがあった場所には特別養護老人ホームが建てられている。

Googleストリートビューでは2012年の画像が見られるが、この時は木造の中学校校舎がまだ残っている。調べてみると2014年度に旧金泉中学校の校舎解体の工事発注見通しが出ていたようなので、閉校後10年間近くはそのまま残されていたようだ。校舎はグラウンドから一段高いところにあり、今は草に覆われている。

老人ホーム入り口には当時のものと思われる門柱も残っていて、その近くに閉校記念碑も建立されている。門柱には木製の看板もそのまま残っていて、うっすらと「金泉中学校」という文字が読み取れる。

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相川町立高千小学校南分教場

■学校データ

創立:1902年

・石花尋常小学校がこの地に移転し、高千村立北片辺尋常小学校として開校。

・1922年に高千村立北片辺尋常小学校を廃し、高千村立高千尋常小学校と統合。

・1951年に高千村立高千小学校南分教場として再び開校。

・1956年に町村合併により相川町立高千小学校南分教場と改称。

閉校:1965年

コメント:

佐渡遠征その35。

跡地には「夕鶴の里」という施設が建てらている。後で調べてわかったことだが、おそらくほとんどの人が聞いたことがあるであろう「鶴の恩返し」という童話の原作発祥の地がここらしい。

この学校跡がある「北片辺集落」に語り継がれている「鶴女房」という昔話を聞いた国文学者の鈴木棠三さんが、後に「佐渡昔話集」を発行。その後、劇作家である木下順二さんが「鶴女房」を題材にして、「夕鶴」という戯曲を作ったそうだ。

そのため、この「夕鶴の里」には、木下順二さん直筆が刻まれた記念碑が建立されている。その近くに、南分教場の閉校記念碑も置かれている。

建物自体は当時のものではないそうだが、建っている場所はもともとの校舎があった場所らしい。手前の芝生広場がグラウンドだったそうだ。

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相川町立高千北小学校

■学校データ

創立:調査中

閉校:1984

コメント:

佐渡遠征その34。

旧高千村の北にあったから高千北小学校・・・という名称だと思われるが、学校があった地域は「北田野浦」という名前なのでそこからつけられた名前なのかもしれない。ちなみに北田野浦はあれど、南田野浦や東田野浦などの地名は見当たらないので、田野浦の北というわけでもなさそうだ。

学校はすでに解体されているが、門柱だけがきれいに残されている。門柱には学校名が書かれた表札が残っていたが、かなりかすれていて、「相川町立高千・・・」までは見えている。

また、松の木や藪で覆われているあたりにはタイヤの跳び箱や児童たちの作品と思われるものがいくつか見つかった。タイヤが積み重ねられたものはなんだろう・・・。

跡地の裏には田んぼが広がっていて、農作業のためか、車の轍や土のついたままのトラクターか何かが通った跡が残っている。

ちなみに写真を見てわかる通り、学校跡地周辺には建物がほとんど建っていない。集落と集落の間に建てられた学校という印象が強い。

校舎の解体時期は不明だが、2004年の空中写真を見るとまだ校舎は残っていたので、それ以降に解体されたようだ。(市の入札情報を見ても、解体工事の入札が見当たらなかったので、もしかしたら閉校後に民間に引き払われたか?)

Wikipediaを見ると閉校は1984年7月17日に高千小学校に統合と書かれている。すごく中途半端な時期に閉校しているが、これは夏休みを利用しての統合ということなのだろうか。なぜ年度を待たず閉校したのだろうか・・・。

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