学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

能生町立藤崎小学校

■学校データ

創立:1874年

・公立第十六番小学能生校藤崎第一分校として開校。

・1890年に本校から独立し、川崎校と改称。

・1907年に磯部村立藤崎尋常小学校と改称。

・1941年に磯部村立藤崎国民学校と改称。

・1947年に磯部村立藤崎小学校と改称。

・1954年に町村合併により能生町立藤崎小学校と改称。

閉校:1969年

コメント:

学校があったところには保育園があり、玄関先には二宮金次郎氏が建っていた。建物は配置からしておそらく当時のままと思われる。

ちなみのこの保育園は2020年3月末で閉園したが、撮影しているときはまだ現役だったため、全体の写真撮影は控えた。

その保育園の隣には広々とした空き地があり、かつてのグラウンドではあるが今は草がぼうぼうと生えている。実際は駐車場として使われているようで、隅には臨海学校の駐車場を示す看板が建てられていた。なぜか写真には撮っていないが。この駐車場の隅に石碑が建っているが、残念ながら閉校記念碑ではなかった。

2014年のGoogleストリートビュー及びGoogleマップにはこの駐車場のある場所に「能生町就労センター」という共同作業施設が建っているが、2019年の調査時には何も残っていなかった。

保育園閉園後、この建物と二宮氏はどうなるのだろうか。

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能生町立大洞小学校

■学校データ

創立:1878年

・能生校大洞派出場として開校。

・1882年に能生校大洞分校と改称。

・年度不明 筒石校大洞分校と改組。

・1892年に独立し、川崎村立大洞尋常小学校と改称。

・1901年に町村合併により磯部村立大洞尋常小学校と改称。

・1941年に磯部村立大洞国民学校と改称。

・1947年に磯部村立大洞小学校と改称。

・1954年に町村合併により能生町立大洞小学校と改称。

閉校:1969年

コメント:

結論から言うと跡地は完全なる私有地になっているため、一部しか撮影できなかった。

集落に着いたときに跡地らしい跡地は見当たらなかったのでうろうろしていたら住民を発見したため伺ってみたところ、場所がようやく特定できた。それだけではなく、学校のに飾られていた校章は現在集会所内で保管されているという情報までいただいた。さすがに集会所には入れなかったが、ある程度のものが残っていることで一安心。

敷地の一部が家が建っていて、校舎があったと思われるところは単なる広場となっている。広場とはいえ私有地なので入ってはいけない。

解体前はかやぶき屋根で、日本で唯一のかやぶき屋根に小学校だったのではないかといわれている。解体前の学校は「大洞小学校」で画像検索すると白黒の画像で見つかる。さすがに転載するわけにはいかないので、ご自身でお探しください。

ちなみにこの集落、国道も通っていない山あいにあるのだが、ゴーゴーと車の走行音が響いている。集落近くに北陸道のトンネルとトンネルの間の明り取り部分があるため、トンネル内で反響した走行音が集落内にこだましている。

これ以外とストレスになっているのではないか?

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能生町立仙納小学校

■学校データ

創立:1878年

・能生校仙納派出場として開校。

・1882年に能生校仙納分校と改称。

1884年に川崎校仙納分校と改組。

・1896年に本校から独立し、仙納尋常小学校と改称。

・1941年に磯部村立仙納国民学校と改称。

・1947年に磯部村立仙納小学校と改称。

・1954年に町村合併により能生町立仙納小学校と改称。

閉校:1969年

コメント:

跡地には集会場が新しく建てられている。徳合小学校のように廃校舎を利用しているわけではなかった。鉄棒、雲梯といった遊具は設置されていたが、当時のものではないと思われる。

門柱や閉校記念碑といった類のものもなかったが、近くの植え込みに国旗掲揚塔のようなコンクリート柱が見つかった。果たしてこれは?

1976年の空中写真を見ると今の集会場と同じ場所に建物が見える。廃校から7年が建っているが、1964年の写真を見てもほぼ同じ位置に建物があった。この集会場がいつ建てられたのか分からないが、「これ本当に建て直したのか?」と思えるほどおんなじ位置に校舎があったようだ。

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能生町立徳合小学校

■学校データ

創立:1874年

・公立第十六番小学能生校徳合第三分校として開校。

1888年に簡易科筒石小学校徳合分場と改称。

・1892年に独立し、尋常科徳合小学校と改称。

・1915年に校舎新築移転。

・1941年に磯部村立徳合国民学校と改称。

・1947年に磯部村立徳合小学校と改称。

・1954年に町村合併により能生町立徳合小学校と改称。

閉校:1969年

コメント:

校舎は一部が残っていて、現在は公民館として利用されているらしい。残っているのは過去の空中写真などから推測するに、屋内運動場だったところではないだろうか。

閉校記念碑は見つからなかったが、卒業記念の石碑は校舎裏にあった。また、グラウンドと思われる広場の隅には遊具がいくつか見られた。これは当時のものではなく後々整備されたものだと思われるが。

道路から校舎に上る階段の先に門柱のようなものがあるが、学校名が書かれたプレートがあったと思われるわずかな窪みはあったが、何も残っていない。

春になると桜が咲くようだが、時期が悪く拝めなかった。しかし玄関近くに植えられている樹木(松っぽいけど松ではないと思う)は立派である。

閉校から50年以上経っているが、木造校舎がまだこのように形が残っているのは本当に奇跡だ。むしろ木造校舎だから残っていられるのかもしれない。

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黒川村立胎内中学校・新潟県立中条高等学校黒川分校

■学校データ

創立:1948年

新潟県立中条農業高等学校定時制黒川分校として開校。

・1949年に本校に普通科を設置し、新潟県立中条高等学校定時制黒川分校と改称。

・1952年に黒川村立黒川中学校鼓岡校舎、大長谷校舎が統合し、黒川村立胎内中学校が開校。中条高等学校定時制黒川分校が胎内中学校に移転。

・1963年に黒川村立胎内中学校隣に中条高等学校定時制黒川分校新校舎竣工。

閉校:1979年

中学校、高校分校跡地は某ふとん工場が入り、現在も稼働している。最初に胎内中学校跡を買収し、その9年後に高校黒川分校跡を買収したという経緯があるらしい。

工場の一部は当時の学校そのものの形を維持しているらしく、木製の部分がおそらく学校だったところなのだろう。割と形が残っているようだ。奥には鉄筋コンクリート製の真新しい建物(本社らしい)がある。

休日ではあったが工場が絶賛稼働中だったため、さすがに敷地内に入るわけにはいかず、近くの道路から外観だけを撮影した。閉校後すぐに買収されたようなので、閉校記念碑などは多分作られていないと思われる。

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