学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

小出町立干溝小学校・伊米ヶ崎村立伊米ヶ崎中学校干溝分校

■学校データ

創立:1874年

新潟県第六中学区二十番小学区大浦校附属干溝校として開校。

・1879年に虫野校附属干溝校と改称。

・1887年に尋常科虫野小学校干溝分校と改称。

・1889年に尋常科虫野小学校干溝分場と改称。

・1892年に本校から独立し、南魚沼郡村立干溝尋常小学校と改称。

・1909年に伊米ヶ崎村干溝尋常小学校と改称。

・1941年に伊米ヶ崎村干溝国民学校と改称。

・1947年に伊米ヶ崎村立干溝小学校と改称。

・1949年に伊米ヶ崎村立伊米ヶ崎中学校干溝分校を併置。

・1950年に分村合併により小出町立干溝小学校と改称。伊米ヶ崎村立伊米ヶ崎中学校干溝分校が閉校。

・1985年に町の条例により閉校するも、集落による自主干溝小学校が開校。同年7月に終了。

閉校:1985年

コメント:

実はこの学校、めちゃくちゃ複雑な事情があった学校である。

1947年に学校教育法が施行し、国民学校が小学校へと変わると同時に高等科が中学校へと変わったのだが、干溝小学校には高等科がなかったため、中学校は当初設置されなかった。

その後、村内に中学校を二つにするという議案が可決したのにも関わらず、干溝を除く集落が「二校では財政が破綻してしまう」と村民有志大会を開いたため、村議会が一校案を採択した。これは不当だと怒った干溝集落が役場に押しかけ、税金の不納を訴えたり、役場の一部を破壊したりするなどして、ついには集落の中学生の不就学という行動にもでた。

この問題を解決するため、新潟県知事が条件を附して干溝分校の開学を許可した。しかしその1年後、干溝集落は分村して隣の小出町と合併したため、集落の生徒は小出中学校へ通学することになり、わずか1年で分校は廃校となった。

しかもその後、小出小学校との統廃合を不服として裁判沙汰になるが結局和解せず、1985年に条例により閉校するも、集落が自主的に小学校を立ち上げ、退職した教師を集めて「自主干溝小学校」を開いた。集落センターや自宅などで授業を行うも、県議会による対応で自主授業は中止。同年7月12日から小出小学校で授業を受けることになった。

・・・という歴史がある。非常に教育熱心であり、地域の存続を願った活動だったともいえるが・・・。

学校跡地には体育館が建てられているが、これは閉校後に建て替えられたもので、当時をしのぶものとしては、入り口の門柱と二宮金次郎像ぐらいだろうか。

にしても門柱にはめられたプレートは妙に新しいし、二宮金次郎像も歴史の割にきれいなような。閉校記念碑も2017年と最近建てられたもののようなので、もしかしたら二宮金次郎像などもその時に建てられたものかもしれない。

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(1976年の空中写真。中央にあるのが干溝小学校。出典:国土地理院

 


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