学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

上越市立山部小学校

■学校データ

創立:1883年

新潟県中頸城郡第二十一小学校公立針村小学校山部分校として開校。

・1892年に独立し、中頸城郡立山尋常小学校と改称。

・1908年に板倉村立山尋常小学校と改称。

・1941年に板倉村立山国民学校と改称。

・1947年に板倉村立山部小学校と改称。

・1958年に町制施行により板倉町立山部小学校と改称。

・1985年に新校舎竣工。

・1990年に菰立分校閉校。

・2004年に板倉町立寺野小学校と統合。

・2005年に市町村合併により上越市立山部小学校と改称。

閉校:2021年

コメント:

閉校したばかりの学校である。学校自体も大きく、グラウンドも広々している。すぐ近くに北陸新幹線の飯山トンネルと高架橋も見える。

校庭には真新しい閉校記念碑と創立100周年記念の銅像が建てられている。閉校記念碑の裏面には校歌が刻まれ、閉校年月は書かれているが創立年は書かれていない。

学校の裏に回ると小さな庭があり、そこに二宮金次郎像がひっそりと佇んでいる。学校側を向いているのは子ども達を見守るためだろうか。

閉校したてということもありまだ生活感が見られる。今後この学校はどのような使われ方をしていくのだろうか。

そして古い空中写真を見て気づいたが、プールのあった場所に旧校舎があったようで、1985年は移転新築したようだ。旧校舎があったあたりは宅地となっているため現在は学校の面影は見られない。(道理で少し離れたところにプールがあるもんだなぁと不思議だったわけだ)

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板倉町寺野小学校・板倉町立板倉中学校寺野分校

■学校データ

創立:1874年

・公立第二十八番小学針村校附属久々野校として開校。

1886年に公立第十九小学区久々野尋常小学校と改称。

・1889年に寺野村久々野尋常小学校猿供養寺簡易科分校が開校。

1893年に猿供養寺簡易科分校を統合。

・1901年に高等科を併置し、寺野村久々野尋常高等小学校と改称。

・1909年に寺野村寺野尋常高等小学校と改称。

・1941年に寺野村寺野国民学校と改称。

・1947年に寺野村立寺野小学校と改称。寺野村立寺野中学校を併設。

・1952年に寺野中学校独立校舎が落成。

・1956年に町村合併により板倉村立寺野小学校、板倉村立寺野中学校と改称。

・1958年に町制施行により、板倉町立寺野小学校、板倉町立寺野中学校と改称。

・1963年に寺野中学校が板倉中学校と統合し、板倉中学校寺野分校と改称。

・1964年に板倉中学校寺野分校が閉校。中学校跡に寺野小学校が移転。

・1993年に新校舎竣工。

閉校:2004年

コメント:

学校自体はグループホームとして再利用されている。撮影しに行った日も絶賛利用中だったので、不審者扱いされない程度に周りを撮影した。

グラウンドの隅には閉校記念碑が建てられている。おしゃれなデザインだ。

ちなみに沿革にも書かれているが、寺野小学校がある場所はもともと寺野中学校があったところで、小学校は別のところにあった。写真を撮ったわけではないが、そこは現在ゲートボール場が作られている。特に学校だったことを示すものは残っていない。

プールは学校から100メートルほど下った川沿いにあったのだが、草刈りをしている住民がいたのと、プールまで行く道筋がよくわからなかったので遠目から撮影した。

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板倉町立筒方小学校・板倉町立板倉中学校南部校舎

■学校データ

創立:1874年

・前身となる公立第二十九番小学宮島校筒方分場が開校。

1880年に前身となる宮島校栗沢分校が開校。

・1892年に村立宮島小学校筒方分校、栗沢分校、関田分校(開校年度不明)、達野分校(開校年度不明)が統合し、根越村筒方尋常小学校が開校。

・1901年に高等科を併置し、根越村筒方尋常高等小学校と改称。同年11月に町村合併により、板倉村筒方尋常高等小学校と改称。

・1941年に板倉村立筒方国民学校と改称。

・1947年に板倉村立筒方小学校と改称。板倉村立板倉中学校南部校舎を併設。

・1958年に町制施行により、板倉町立筒方小学校、板倉町立板倉中学校南部校舎と改称。

・1961年に板倉町立板倉中学校南部校舎を本校に統合。

閉校:2004年

コメント:

「筒方」と書いて「どうがた」と読む。

鉄筋コンクリート製の立派な校舎であり、現在は地域の避難所であり、「筒方地区地域資源加工施設」として利用されているようだ。

この筒方地区では、早春の3月ごろに「寒さらしそば」というのを打ってふるまうイベントが行わているようだ。寒ざらしそばとは、光ヶ原高原で栽培されたそばの実を冷たい清流にさらして雑味を抜いたそばのことで、甘みが増すらしい。

グラウンド近くに閉校記念碑となる「絆」と刻まれた石碑と、鉄パイプで囲まれた日時計があった。日時計の近くには児童たちの手形が埋め込まれたタイルがあり、タイムカプセルが埋められているようだ。埋められた20年後に掘り出される予定らしいが、当時の在校生も27歳~32歳あたりである。果たしてこの地区に何人いるのだろうか。

学校の後ろ側は藪で覆われていたり少し崖っぽくなっているが、木枠で囲まれた二宮金次郎氏がいた。なんでこんな日の当たらない学校の裏側にいるのだろうか。

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出雲崎町立西越小学校相田分校

■学校データ

創立:1875年

・第三中学区第四学区第二番小学区船橋校附属相田校として開校。

・1879年に三島郡第八番小学区船橋校附属相田校と改称。

・1885年に三島郡第十九小学区高等科船橋小学校相田分校と改称。

1886年に尋常科船橋小学校相田分校と改称。

・1892年に村立八手尋常小学校相田分校と改称。

・1909年に村立上西越尋常小学校相田分校と改称。

・1932年西越村立西腰尋常高等小学校相田分校と改称。

・1941年に西越村立西越国民学校相田分校と改称。

・1947年に西越村立西越小学校相田分校と改称。

・1957年に町村合併により出雲崎町立西越小学校相田分校と改称。

閉校:1971年

コメント:

学校跡は「小木ノ城山荘」という宿泊施設として第二の人生を歩んでいる。当然人が住んでいるでむやみに撮影するのはいけないのだが、伺った日はちょうどお昼の営業をしていたようで、外には2人組のお客様がいらっしゃった。

私が近づくと「どうしましたか」と声をかけられたので「趣味で廃校を回っています。写真を撮影したいのですが、お店の方はいらっしゃいますか」と尋ねると「ああ、どうぞ」という返事をいただいた。なんと2人組の一人はここのご主人だった。

目の前に閉校記念碑があるので撮影したあと、「ちなみに建物の中には教室などの手がかりはあったりしますでしょうか」と尋ねると「すべて部屋として改装してしまったけど、すぐそこのフロアに学校の名残があるから撮影していいよ」と許可をいただいた。外観を撮影したブログなどはよく見かけるが、中に入って撮影したのは初めてじゃなかろうか。

中にお邪魔すると、入ってすぐのロビーのような場所の床に白い枠線が見えた。これが学校の名残らしい。山荘として改装していることを考えると、この白線が教室のものを指すのか屋内運動場に引かれた白線のことなのか、よくわからなかった。

ちなみにこの山荘の近くの茂みの中には「道山閉村記念之碑」と書かれた石碑がひっそりと佇んでいる。道山という集落が閉村したことを記した石碑なのだが、実は相田分校がある集落こそがかつて道山と呼ばれた集落だそうで、この地域は閉村していることになっている。閉村時期は1971年。つまり閉村と閉校が同時期ということだ。

相田分校以外の建物も数棟見られるが、基本的には無住らしい。その中でも学校が山荘として生き残っていることは非常に感慨深いものだ。

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出雲崎町立西越小学校(上校舎)

■学校データ

創立:1872年

船橋郷校として開校。

1873年三島郡第二十四小学区船橋校と改称。小竹分校、松本分校、藤巻分校を設置。

・1874年に第三中学区第四学区第二番小学区船橋校と改称。

・1875年に附属相田校を設置。

・1879年に三島郡第八番小学区船橋校と改称。

・1885年に三島郡第十九小学区高等科船橋小学校と改称。附属校が独立し、小竹校は第十九小学区初等科米田小学校、松本校は第十九小学区初等科松本小学校、藤巻校は第十八小学区藤巻小学校と改称。

1886年に藤巻校は簡易科藤巻小学校、船橋校は尋常科船橋小学校と改称。松本校、米田校は船橋校の分場へ改組。

・1889年に簡易科藤巻小学校が簡易科西越小学校と改称。 ・1890年に簡易科西越小学校が尋常科西越小学校と改称。

・1892年に尋常科西越小学校が村立西越尋常小学校と改称。尋常科船橋小学校が村立八手尋常小学校と改称。

・1901年に西越尋常小学校に高等科を併置し、村立西越尋常高等小学校と改称。

・1909年に八手尋常小学校中越尋常小学校(出自不明)が統合し、村立上西越尋常小学校と改称。

・1914年に上西越尋常小学校に高等科を併置し、三島郡上西越尋常高等小学校と改称。

・1932年に上西越尋常高等小学校と西越尋常高等小学校が統合し、西越村立西越尋常高等小学校が開校。それぞれ上校舎、下校舎となる。

・1934年に西越村立西越尋常高等小学校中央校(心耕学園)が竣工。

・1941年に西越村立西越国民学校と改称。

・1947年に西越村立西越小学校と改称。中央校に西越村立西越中学校が開校。

・1948年に西越中学校内に村立西越高等学校(後の県立出雲崎高等学校)が開校。

・1949年に西越中学校新校舎を中学校敷地内に竣工、移転。

・1953年に西越中学校が現在の西越小学校跡地(現・出雲崎小学校敷地)に新築移転。

・1957年に町村合併により出雲崎町立西越小学校、出雲崎町立西越中学校と改称。

・1971年に出雲崎町立西越小学校相田分校を統合。

・1972年に出雲崎町出雲崎中学校と西越中学校が名目統合。

・1974年に出雲崎中学校新校舎竣工により、実質統合。

・1978年に西越小学校の上校舎と下校舎が統合し、西越中学校跡地に新校舎竣工。

閉校:2000年

コメント:

とてもながーい沿革と複雑な統廃合。入れ代わり立ち代わりがあるが、1947年以降は、中学校に高校を併置→狭くなったので近場に中学校校舎を建てる→中学校が統合したので空く→空いた中学校敷地に統合小学校を建てる、という流れだ。

上校舎跡地には老人ホームが建てられている。敷地内の入り口に記念碑がある。よく見ると「西越小学校上校舎跡」と刻まれている。後ろを見ると「昭和五十五年(1980年)建立」とあるので、統合した際に建てたものということだ。

同じ敷地内に木造の建物が建てられている。老人ホームの付随施設にしては古すぎるので、おそらく西越小学校の痕跡だろう。特別教室か何かだと思われる。

実はこの上校舎跡が西越小学校そのものだと勘違いしていた。「上校舎」と書かれていたことに家に帰った後に気づき、「下校舎」の存在があることを知ったのだ。

しかも現・出雲崎小学校のあるところに、1968年ごろに学校状の建物があったことにも気づいた。これは1975年の空中写真では建物がなかったので、それで上校舎を本校と勘違いしていたのだ。つまり中学校が閉校して取り壊し、西越小学校の統合校舎を建設している最中のタイミングだったわけだ。

沿革と閉校記念碑と空中写真が一致しないのでずっと「???」と思っていたのだが、ようやく整理できた。

統合した西越小学校は現在の出雲崎小学校になっているのでさすがに撮影はあきらめた。多分西越小学校の閉校記念碑があるんじゃないかとにらんでいる。

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