学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

飯山市立柳原小学校五郷分校

■学校データ

創立:1971年

飯山市立柳原小学校大川分校と飯山市立柳原小学校涌井分校が統合して開校。

・1973年にプール竣工。

閉校:1987年

コメント:

飯山市には多くの分校があったが、割と有名な方の廃校となった分校ではなかろうか。国道沿いからもはっきりと見える学校で目立つ。

体育館は窓すべてが羽目板で覆われ中の様子をうかがうことはできない。校舎も1階部分がすべて羽目板で囲われている。

現在利用は無いようだが、閉校後は「五郷スタジオ」という画家たちのアトリエになっていたようだ。が、今は全く使われている様子はない。これ誰が管理しているんだろう。玄関にも「五郷スタジオ」と書かれた木の板が掲げられ、その横の鉄扉にもでかでかと書いてある。

その玄関の隅に石碑が置いてあり、これが一応閉校記念碑ということになる。しかしこれ、逆向きな気がするな。今見えているのはどう見ても裏側の部分。おそらく本来は敷地内のどこかに建立してあったものを、何かしら利用される際に撤去し、ここに置いたのではないだろうか。

もともとどこに建立されていたのかはわからない。スタジオとして使われ始めたタイミングか、この近くの治山工事のためのプレハブ小屋を建てる際に撤去したかのどれかかと思う。(写真には写っていないが、学校への入り口付近にプレハブ小屋が建っている)

ちなみにこの学校、いろいろ謂れがあるらしく、学校ができた当初の1971年では飯山市唯一で初めての鉄筋コンクリート校舎だったらしい。分校にしてはえらく金がかかっていたようだが、どうやら当時の飯山市の議長がコネで国から強引に補助金を引き出して建てたそうだ。うーん、今も昔もそういったお金絡みの話は絶えませんね。

なお、五郷分校の名前の由来は校区である大川、涌井、堰口、関屋、大平の5つの集落のことを指しているらしい。大川集落と涌井集落の間に大川トンネルが開通したことにより統合したらしいが、統合した16年後、本校と一緒に泉台小学校開校のため閉校となった。

つまりこの校舎、16年間しか使われていないことになる。うーん、すごくもったいなかったね。だから補助金の云々の話題がネット上に上がるわけだ。

(1976年の空中写真。赤い○印が柳原小学校五郷分校。下には大川集落が見える。出典:国土地理院

 


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