学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

山古志村立東竹沢小学校

■学校データ

創立:1889年

・竹沢村東竹沢村組合立尋常科竹沢小学校として開校。

・1901年に組合立を解消し、小松倉集落に東竹沢第一尋常小学校が、梶金集落に東竹沢第二尋常小学校が開校。

・1902年に東竹沢第二尋常小学校が東竹沢村立梶木尋常小学校と改称。

・1911年に東竹沢第一尋常小学校が東竹沢村立芹坪尋常小学校と改称。

・1941年に東竹沢村立梶木国民学校、東竹沢芹坪国民学校と改称。

・1947年に東竹沢村立梶木小学校、東竹沢村立芹坪小学校と改称。梶木小学校に東竹沢村立東竹沢中学校を、芹坪小学校に東竹沢村立東竹沢中学校芹坪分校を併置。

・1956年に町村合併により山古志村立梶木小学校、芹坪小学校と改称。同年、東竹沢中学校、東竹沢中学校芹坪分校が統合により山古志村立山古志中学校梶木分校、芹坪分校と改称。

・1972年に統合中学校校舎竣工により、梶木校舎、芹坪校舎を廃止。

・1977年に梶木小学校と芹坪小学校が統合し、山古志村立東竹沢小学校が開校。

閉校:2000年

コメント:

東竹沢小学校は2004年の中越地震発生時にかなり目にした人も多いのではないだろうか。

廃校だった小学校がなぜそんなにテレビに映ったか。それは土砂崩れによって発生した河道閉塞の緊急排水作業のため、東竹沢小学校の中をぶち抜いて何本もの排水パイプを通すといった光景があったからだ。

その後に緊急排水路が整備され、排水パイプの役目が終わったと同時に小学校も解体された。解体は翌年の6月だったようだ。

跡地には閉校記念碑が残されている。実際学校があった場所には道路が通っている。土砂崩れと河川の整備で道路も新たに作り直されたため、記念碑がある平地が学校そのものの跡だったわけではないようだ。

また、被災地の整備により作られた砂防施設が一部公園のような形で立ち入ることができ、そこから東竹沢小学校跡を望むことができる。施設には地震発生から整備完了までの沿革が描かれたプレートがあり、その一角に解体直前の東竹沢小学校の写真を見ることができる。

地域を守るために排水パイプを通した学校。地域の人たちにとっては記憶の中に強く刻まれた母校だったのではなかろうか。

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山古志村立竹沢小学校・山古志村立山古志中学校竹沢分校

■学校データ

創立:1875年

・虫亀校附属竹沢校として開校。

・1887年に簡易科竹沢小学校と改称。

・1889年に竹沢村東竹沢村組合立尋常科竹沢小学校と改称。

・1901年に組合立を解消し、竹沢村立竹沢尋常小学校が開校。

・1902年に高等科を併置し、竹沢村立竹沢尋常高等小学校と改称。

・1941年に竹沢村立竹沢国民学校と改称。

・1947年に竹沢村立竹沢小学校と改称。竹沢村立竹沢中学校を併置。

・1956年に町村合併により山古志村立竹沢小学校と改称。同年、竹沢中学校が統合により山古志村立山古志中学校竹沢分校と改称。

・1972年に統合中学校校舎竣工により、竹沢校舎を廃止。

・1981年に新校舎を竣工。

閉校:2000年

・竹沢小学校、虫亀小学校、種苧原小学校、東竹沢小学校、池谷小学校が統合して竹沢小学校跡に山古志小学校が開校。

・2006年に山古志中学校を小中併設校として改築し、移転。

コメント:

跡地には農産物直売所が建てられているが、これ自体は小学校解体後に完成したものと思われる。

竹沢小学校は閉校後、山古志地域の統合小学校として整備されたが、中越地震でがけ崩れや床の陥没などにより学校運営に支障をきたしたため、山古志地域の住民避難とともに小学校としての役目を終えた。山古志小学校は山古志中学校敷地内に新しく建てられ、2006年から稼働している。

閉校記念碑があるほか、天皇皇后両陛下の歌碑が建てられている。この歌碑は中越地震発生後の御見舞いに来られた際に読まれたもののようで、記念に建立されたとのこと。石碑があるあたりから被災した山古志の山々を眺められたそうだ。

なお、跡地には先の農産物直売所のほか、似た外観の家が5棟ほど建てられている。復興住宅と思われるので、あまり深く立ち入ると迷惑がかかる可能性があるのでご注意を。

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山古志村立虫亀小学校・山古志村立山古志中学校虫亀分校

■学校データ

創立:1874年

・山古志組合立本校虫亀校として開校。

・1885年に組合立高等科を併置。

・1887年に太田村立尋常科虫亀小学校と改称。

・1907年に高等科を併置し、太田村立虫亀尋常高等小学校と改称。

・1941年に太田村立虫亀国民学校と改称。

・1947年に太田村立虫亀小学校と改称。太田村立太田中学校虫亀分校を併置。

・1956年に町村合併により山古志村立虫亀小学校、太田中学校虫亀分校と改称。同年、太田中学校虫亀分校が統合により山古志村立山古志中学校虫亀分校と改称。

・1972年に統合中学校校舎竣工により、虫亀校舎を廃止。

閉校:2000年

コメント:

山古志村内では最初にできた学校である。この虫亀校が開校したことがきっかけで、他地域でも分校ができていった。当時虫亀地区は山古志村に相当する地域では一番大きな集落だったらしい。なお、現在の山古志地域の中心は竹沢地区になる。(長岡市役所山古志支所も竹沢地区にある)

学校は閉校当時のまま残されているようで、まだ現役校と言ってもいいほどきれいであるが、2004年に隣町の川口町を震源地とする中越地震に耐えたというのがすごい。中越地震発生直後は避難場所として使われていたらしい。現在は公民館分館となっている。

グラウンドの手前には閉校記念碑が、奥には創立80周年記念の石碑と学校の敷地を寄付した人への感謝を表す石碑が建てられている。その左隣にプールがあったようだが、今は土が盛られ、公園のようになっている。

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小千谷市立塩殿小学校・小千谷市立小千谷中学校塩殿分校

■学校データ

創立:1874年

・吉谷校分校塩殿校として開校。

1881年に塩殿小学校と改称。

・1892年に山辺村立塩殿小学校と改称。

・1909年に山辺村立塩塩殿小学校と改称。

・1941年に山辺村立塩殿国民学校と改称。

・1942年に町村合併により小千谷村立塩殿国民学校と改称。

・1947年に小千谷町立塩殿小学校と改称。小千谷町立小千谷中学校塩殿分校を併置。

・1954年に市町村合併により、小千谷市立塩殿小学校、小千谷市小千谷中学校塩殿分校と改称。

・1981年に小千谷市小千谷中学校塩殿分校が閉校。

閉校:2013年

コメント:

学校自体は残っているが、現在は総合支援学校として利用されている。撮影した日は休日だったので少しお邪魔させてもらった。ちなみに小千谷中学校塩殿分校は前の校舎時に閉校したため、現在の校舎ではない。

訳あって先に裏側に回ったが、一部工事中となっている。どうやら作業等を作る工事を行っていたようだ。この作業等は2020年12月末に引き渡されたとのこと。(撮影は同年8月)

直接道路に面する側ではなく、裏側に記念碑や門柱などが建ててある。これは閉校後に移設したのだろうか。学校の入り口の門柱がなぜ学校の裏側にあるのだろうか・・・と思って門柱をよく見てみると昭和39年建立と書かれている。その当時は確かにグラウンド側に校舎がある。ああなるほど、だからこっちに門柱があるのかー・・・いやいや、当時もアクセス路は今の道と同じところだ。わざわざ裏手側に回らないと玄関がないなんてことはあるだろうか。(ふつうはグラウンドを横切って学校に入るんじゃないのか?)

そして本来の学校の表側にある門柱は「小千谷市立塩殿分校」と書かれている。これは小千谷中学校塩殿分校の跡を示す門柱と思われる。中学校の分校が閉校したのは1981年。今の小学校が建て直されたのはそれ以降。なんでこっちの方が表側にあるんだよ!

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川口町立和南津小学校

■学校データ

創立:1883年

・中山校附属和南津校として開校。

1886年に簡易科和南津小学校と改称。

・1902年に川口村立和南津尋常小学校と改称。

・1941年に川口村立和南津国民学校と改称。

・1947年に川口村立和南津小学校と改称。

・1957年に町制施行により川口町立和南津小学校と改称。

閉校:1973年

コメント:

学校跡は広い空き地となっているが、ホームベースが置かれていたり、きちんと草刈りや草集めが行われているところを見ると、まだ現役の場所として使われているようだ。それもそのはず、すぐ近くに集会所もあり、広場を挟んだ反対側には神社がある。そのなも和南津神社。おそらくここの集落名もこの神社の名前から取られたのだろう。

閉校記念碑がある場所はもともと校舎があった場所のようで、ブランコや鉄棒などが設置されている。いや、設置されてい「た」か。ブランコの座る部分や鉄棒の握る部分が取り外されている。撮影した時期が確か冬前だったので、取り外したのだろうか。

今でも祭りなどでこの場所を使うようで、広場の中心には焚火か何かをしていた跡が残っていた。人の賑わいがある限り、この場所は生き続けてくれることだろう。

ちなみに、サムネイルの写真の角度から見ると石碑の裏に道が通っているのだが、ここは昔JR上越線の旧線だったようで、1963年と1976年の空中写真を比較すると動線がよくわかる。新線への切り替えは1966年だったようだ。

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