学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

胎内市立柴橋小学校

■学校データ

創立:1880年

・柴橋庵を仮校舎として開校。

1881年に第二中学区第二十二番小学中条校附属柴橋校と改称。

・1885年に本校から独立し、尋常科柴橋小学校と改称。

・1892年に柴橋村立柴橋尋常小学校と改称。

・1901年に町村合併により、中条町立柴橋尋常小学校と改称。

・1941年に中条町立柴橋国民学校と改称。

・1947年に中条町立柴橋小学校と改称。

・2005年に町村合併により、胎内市立柴橋小学校と改称。

閉校:2011年

胎内市立本条小学校と統合し、胎内市立胎内小学校が開校。

コメント:

胎内市になってから閉校した学校である。校舎も体育館もだいぶ年季がある。

正面側はすぐに道路に面していたため、入るのに躊躇してしまったため(別に封鎖されていたわけではないが)、裏の農道側に回り込んだ。グラウンドはかなり広く、砂地で野球するのにとてもよさそう。

校舎と体育館をつなぐ渡り廊下が木造でとても長いのが印象的。1975年の空中写真を見ると、正面から見て校舎の右側に木造の別棟があったようだ。現時点でのGoogleマップには写っているが、ストリートビューでは解体されていた。というかこの渡り廊下の途中から分岐してその別棟(というか旧校舎?)とつながっていたようだ。

正門側に回ると、きれいに整えられた校庭があり、そこに閉校記念碑と「精進」と刻まれた石碑、巨大な岩にたたずむ二宮金次郎氏があった。なんで二宮氏はそんな高いところにいらっしゃるんでしょうか。

ちなみに正門側から右側に歩いて気付いたが、渡り廊下が校舎とくっついていなかった。これでは体育館で授業があるときなどは、いったん外に出るような形になってしまう。なんでわざわざこんなことになってるんだ?

・・・もしかしてこれ、閉校後にわざと切り離したとか?入り口付近のトタンの色が微妙に違うし、屋根の形状もおかしい。あれ、体育館もよく見ると鉄筋コンクリートに木造の建物がくっついて、体育館壁も何か切り離したかのように色が違う箇所がある。

見れば見るほど不思議な形状をしている学校だ。

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(1975年の空中写真。写真中央が柴橋小学校。出典:国土地理院

 


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